cling
世界は優しくない。私に出来ることは、その世界で足掻くことと、嘆くこと。
ラピスラズリ・リリィ 06
三軍の昇格試験の結果を監督からもらって、私は愕然とした。この時期の三軍の下位五名には退部が言い渡される。その中に、昨日あんなに遅くまで頑張って練習していた黒子の名前が、無情にも存在していた。
「(どうして)」
「どうかしたか、?」
「あ、いえ、何もありません」
「そこに列記してるメンバーが二軍に昇格する。様子を特に見ておいてくれ」
「分かりました、では練習に戻ります」
三軍コーチに挨拶をして、私は二軍の体育館へと向かった。受けたショックはまだ大きくて、だから私は気を張るのを怠っていたのだ。
「わっ」
目の前で声がしたと思って、意識を戻すと、視界いっぱいにタオルが舞った。やばい、来た。私は直感的にこれが単なる事故でないことを確信していた。顔を腕でかばい、タオル以外に飛んでくるであろうものに対して盾を作る。案の定、腕を何か硬いものがかすめた。そして白い粉末が舞う。洗剤だろうか。瞬時に判断した私は、目を瞑り、片手で口を覆う。
「ご、ごめんなさい!さん!」
まず最初に聞こえてきたのは、同じ学年のマネージャーの声だった。誰だっけ、あ、そうそう、確か、さつきと仲良かった"みっちゃん"だ。
恐る恐る片目を開ける。洗剤の粉塵が収まっていることを確認し、両目を開ける。タオルと洗剤が散らばった惨事の中、みっちゃんは泣きそうになりながら地面に座り込んでいた。すりむいた膝を見れば、故意にこの行為を及んだわけではないということは明白だった。
「何やってるの、一年」
おそらくはこの事故の首謀者であろう、三年マネージャーの"アイツ"が出てきた。みっちゃんの後ろで、偉そうに腕を組んで仁王立ちしていた。
「洗剤まみれになって、いい気味ね」
いや先輩、そこは「大丈夫?」とか言うべき場面でしょう。なんてツッコミはこいつには通用しない。
「その子には今から私が教えなきゃいけないことがあるから、後片付けはあなたがやっておいてね」
「あ、あの、先輩、私」
「分かりました。後始末は私がやっておきます」
半泣きのみっちゃんが抗議しようとするが、その声を遮って私は了承する。アイツはにやりと、満足そうに笑った。
「よろしくね、二軍マネージャーさん」
彼女の中では一軍マネージャーが一番偉い、とでも思っているのだろう。洗剤まみれになった私を見下して行った。
「膝、大丈夫?」
「え、あ、これくらい、でも、さんは」
「平気だから、早く行って。じゃないと、何されるかわからないよ」
小声でそうみっちゃんに伝えると、彼女は涙をこらえながら、三年マネージャーのあとを追った。
「(まずった、ちくしょう)」
いじめの首謀者はもう引退した三年マネージャーで、アイツがさつきをいじめていた。全中が終わって引退したが、"引き継ぎ"と称してしょっちゅう顔を出している。
アイツの攻撃を受けるのは、アイツが引退してからは二度目だった。一度目は水をぶっかけられたっけな。全中前はというと、もうほぼ毎日のようにねちっこい嫌がらせを受けていたけれども、よくもまあレパートリーが尽きなかったものだと、逆に尊敬するくらいだ。今回のように人を使ったり、かと思えば人目につかないところでは直接手を下したりもする。
ともあれ、今回は片付けが面倒なパターンか、なんて考えられるくらい、私は慣れきってしまっていた。洗剤にまみれた髪と服をある程度はたいて、散らばったタオルを回収する。転がったかごを拾い上げ、その中に洗剤にまみれたタオルを突っ込んでいく。これは、洗濯するときに洗剤ケースに洗剤入れなくて済むなーなんて、ことを考えていた。散乱した洗剤が一番厄介だった。ほうきとちりとり持ってこないと無理だな、これは。
ふと、洗剤の中に何か光るものが見えた。顔を近づけて見てみると、ガラスの破片だった。いやあ、やっぱりいじめにあっているときは長袖を着用しておいて正解だな。なんて冷静でいられるのは、やはり回数をこなしているからであろう。慣れとは、恐ろしい。
「おい、」
しかし、このいじめ現場を見られるのは心苦しいものである。
「ああ、青峰くん。どうかしたの?」
特に、私の秘密を知る者には、見られたくないものだ。
「どうしてそんな、辛そうな顔をするの。おなかでも痛いの?」
「うっせえ、黙れ」
私の代わりに傷ついたような顔をしやがって。大輝は顔を歪ませ、惨事を見る。だから、これを見ただけで私の状況がわかるやつには、会いたくないんだ。
「どうした青峰……って、なんなのだよ、これは」
「緑間くん、ごめん。洗濯物運んでる時に、転んじゃって、私」
「お前、そんなに鈍臭かったのか……?」
「た、たまには失敗だってするよう」
そう、何も知らないままでいろよ。そうすれば緑間みたいに、何も思わないで済む。だから、頼むから大輝、そんな顔すんなよ。
「仕方ない。オレのラッキーアイテムを貸してやる」
そう言って緑間は片手に持っていたほうきを差し出した。
「いいの?緑間くん」
「構わん、五分後に再びここを通る。その時に返してくれれば構わん」
「こ、これを五分で終わらせろってこと……?」
緑間が鬼だった。できるだろうか、これを五分で。
「お前なら、出来るのだよ」
「えっ」
緑間は去り際にそう残し、さっさと歩いて行ってしまった。なんだっけ、私、緑間にそんなに仕事の出来る人間だと思われる要素なんかあったっけ。心当たりを探しながらも、時間がないので掃き掃除に取り掛かる。
「わりぃ、何も、してやれなくて」
それだけ言い残して、緑間のあとを追って大輝は駆け出した。
「気にすんな、こんなの全然痛くも痒くもねぇんだよ、バカ」
小さい声で返答する。大輝はすれ違いざまに、ポンっと私の肩を軽く叩いて行った。頑張れ、と言われているようだった。なんだかんだ言って、大輝は私のことを理解してくれている。
それだけで、もう十分救われてるんだよ、てめえには。
*
緑間の宣言通り、五分で洗剤を片付け終えた私は緑間にほうきを返却し、タオルを部室裏の洗濯機に放り込んで回し、そうしてやっと二軍体育館へと到着した。
「遅いわよ、さん。ペナルティ、プラス一、ね」
そこで待っていたのは、二年の二軍マネージャー代表だった。三年マネージャーだけで終わらないのが、うちの部の壊滅的ないじめ情勢です。手に持ったバインダーに私へのペナルティをカウントする。そんな無駄なことメモってないで、筋のいい選手の名前でも連ねたらどうだよ。
「すみません」
言い訳するのも面倒なので、最近はこれだけで済ますことにしている。するとチクチクと聞く意味もないお説教が始まる。この人は二軍マネージャー代表と言いながら、私が既に実権(選手管理、コーチ監督への報告係)を持っているので、形ばかりの代表である。それを妬んで、というのもあるし、諸悪の根源であるさっきの三年マネージャーの息がかかった後輩であるので、私への嫌がらせを行うもう一人でもある。三年マネージャーほどの潔さがない分、とてもねちっこい。
「聞いているの?」
「はい、以後、気を付けます」
と、毎回のテンプレートである言葉を最後に言えば終わりだ。
「さっさと仕事しなさい。遅れてきたくせに、何ちんたらしているの」
あなたの無駄なお説教を聞いていたからですけど、なんてツッコミはもはや心の中でするのも飽きた。私は返事をして、代表から逃げるようにして駆け出した。
ジャージのポケットからメモを取りだす。三軍から昇格してくるメンバーの得意分野やポジションについてを確認し、どのグループに振り分けるかを考えていた。考えているだけでは代表にサボり扱いされるため、行われているミニゲームを見ながら現二軍メンバーの弱点も探ってメモを取る。コート上で飛び交う声や、ドリブルの音、シューズの音を作業BGMにして。
さつきのため、ってのもあったけど、私はなんだかんだ言ってこのマネージャー業務も楽しんでいた。
*
その日、私は代表に仕事を押し付けられて遅くまで仕事を任されていた。任されていなくとも選手がある程度帰るまでは自主練には付き合うつもりではあった。
しかし、今日だけは、今日だけは黒子のいる第四体育館へどうしても顔を出したかった。黒子の様子を伺いたかった。きっとあの結果は黒子に大きくのしかかっているだろう。努力が報われないなんて、それ以上に辛いことはない。
だけどこの厳しい世界では、実力がなければふるい落とされる。そうやって、強いチームができていく。それが帝光バスケ部の強さだった。
だけど、それでも。私は彼に頑張って欲しい。彼に、結果を掴んで欲しい。だから、だから、お願いだ、黒子。どうか、今日も、あきらめないで練習をしていてくれ。仕事が終わるまで、どうか、待っていてくれ。
仕事を終えて、私は第四体育館へと向かおうとした。しかし私は足を止める。
「(どうして)」
足掻いても足掻いても、この世界は思う通りに運ばない。知っている。世界がそんな簡単に思う通りに動かないことは。
だけど、どうして。
どうして、イジメをかかさない三年マネや二軍代表は、歪んだ思いでこの体育館にのうのうと立っていられるのに、バスケに真摯に向かおうとするやつが苦しんで、この部にいられなくなってしまうのだろう。
問題を履き違えていることは、重々承知だ。バスケに真摯であろうがなかろうが、自分の成果を出せば、この部にはいられる。要は"結果"なのだ。
だけど、だけどだけどだけど。
「(一生懸命な頑張り屋さんが、いなくなるのは辛いよ)」
私は、暗くなった第四体育館を見つめながら、立ち尽くしていた。
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14.01.03 明那