cling

 優しい矢印が、君に向いてくれますように。

ゆめのはなし 16

「おい、赤司妹」

 朝、教室に向かう途中で青峰に声をかけられた。その表情は、ほんの少し険しかった。

「どうしたの、青峰?」
「灰崎が退部した」

 もうそんな時期か、なんていう事前知識の照らし合わせをしながら、青峰はなぜ私にわざわざそのようなことを伝えに来てくれたのか、ということに考えを巡らせる。

「俺に出来るのはここまでだ、放課後は気をつけろよ」

 ああ、そうか。部活へと灰崎を連行してくれていたおかげで、放課後の襲撃がなかったのか。だけど灰崎が部活を辞めたとなれば、その可能性がぐんと上がる。というか、彼の性質上、今までの鬱憤を晴らしに来るに違いない。

「忠告、ありがとう」
「お前さ、赤司にはこのこと言ってねぇのか?」
「うん。それが、どうかした?」
「……いや、兄妹って、そんなもんなのか、って思って」
「私が、心配かけたくないから黙ってるだけだよ。部活に集中して欲しいじゃない」
「まあ、うん……そうか。そんなもんなのか。オレ兄弟いないからよくわかんねえや」
「(いるじゃない、兄妹みたいな、幼馴染が)」

 とまあ、彼に紡ごうとしたことは、言葉にならず、彼に届くことはなかった。そうか、この世界では私はまだ彼と彼女の関係を知らないのか。代わりに何を言おうか、少し考えているあいだに、青峰は「まあ、気をつけろよ」と軽く言葉を残して去っていってしまった。
 時計を見れば朝のホームルームの時間まで僅かだった。急いで教室に向かい、そして今日もまた机に向かう作業に徹するのだ。



「おい、赤司妹」

 放課後も朝と同じように声をかけられた。しかし相手は青峰ではなく、残念なことに予想通り灰崎であった。教室で普通に課題と予習をこなしていたら、彼は私のもとに訪れた。
 不運にか、必然的にか、教室には私と灰崎の二人だけだった。放課後の、居残る人も少なくなるような時間だったので、仕方がなかった。
 窓の外はあいにくの天気で、雲が空を覆っていた。湿っぽい匂いがする。もうすぐ雨でも降るのだろうか。

「どうしたの、灰崎?」
「……てめぇ、今の状況がわかってんのか?」

 私は明日の数学の課題の手を止めていない。灰崎の話を片手間で聞いていた。今の状況、それは放課後の教室で灰崎と二人きりという状況のことだろうか。なんて頭で考えていたら、突然目の前で音がして、灰崎がノートの上に、その広い手を叩きつけていた。

「何をするの」
「復讐しに来たんだ、オレは」
「今日の授業の?えらいわね、一緒に勉強しましょうか」
「そっちの復習じゃねえよ!!どんだけいい子ちゃんなんだよオレは!!」

 すっとぼけた返しをすれば、髪をかきむしってツッコミをいれてくれた。イライラしているようだが、案外ノリのいいやつではあった。

「じゃなくって!!」

 ノリツッコミを終えた灰崎が私に向き直る。忙しいやつだな。

「で、何をするの」
「前の続きだ」
「教室で?」
「それは……興奮するな」
「黙れ変態」
「否定はしない」

 目の前の変態は割とマジな顔をしてそう言った。救えない変態だった。

「私が、何の対策もなしに灰崎を待っていたと思う?」

 灰崎に向かって手を伸ばし、それをあてがう。バリッと音がするのと同時に、灰崎が膝を折り、ガクンと崩れ落ちた。椅子に座ったまま、私は灰崎を見下ろしていた。

「おい、てめぇ……」
「護身用です」

 武器でもないと、彼なんかに対抗できない。押し倒されたあの日から、私は対策を立てていた。こんな物騒なもの、元いた世界でも使ったことはないけれども、赤司征美の華奢な体ではこんなものを持っていなければやっていけない。手元にある凶悪な武器を彼に見せびらかし、威嚇した。

「もう一度、喰らいたい?」
「はっ、そんなもん大した威力じゃねぇし」

 彼は諦めない。なぜそれをバスケに使わなかったのか。なんて馬鹿なことを考えていたせいで、灰崎が私の手を弾き、いともたやすく武器を無力化してしまった。彼は次いで、そのまま私の腕を掴んで私を椅子から立たせる。ガタン、と椅子がひっくり返ってしまった。
 彼はそのまま私を壁際まで追いやった。いわゆる壁ドン、というやつである。

「おい、どうした?もう何もねーのか?」

 両腕を押さえつけられて、右足を右足で封じられ、私に反撃の余地はなかった。急所を蹴り上げるという最終手段すら残されなかった。
 窓の外の景色が目に入る。雨はまだ来ない。

「何もないわ」

 潔く言えば、灰崎はなぜか驚いた顔をした。しかし、すぐに醜悪な笑顔に戻る。

「お前、今から何されるかわかってんのか?」

 そう言いながら彼は私の首筋に顔を埋める。灰色の髪が頬をくすぐる。そして首筋に、生暖かい柔らかい感触が這った。

「っ」

 ぬるぬると気持ち悪く舌が肌の上を滑って、思わず息を飲んだ。灰崎は顔を上げ、少し満足そうな顔をした。だけど、なぜかそれはすぐに崩れた。

「おいお前、なんでこの前みたいに抵抗しねぇんだよ」
「え?」
「前は無駄口で俺の気を逸らしたり、歯向かったりしてたじゃねぇか」
「抵抗したじゃない、スタンガンで」
「そういうことじゃねぇよ」

 おかしなことを言う。こいつは、何が言いたいんだ。

「なんでそんな安心しきった顔をできるんだよ?!なんで、この前みたいに絶望的な顔をしねぇんだよ?!この状況で、てめぇは!!」

 確かに、あの時よりも私は焦っていなかった。彼が来ることがわかっていたのがひとつ、あともう一つ、とても単純明快な理由がそこにはあった。私はなぜか腹を立てている暴漢に向かって、その理由を笑顔で答えてやった。


「だって、あなたが私を襲ったところで、もう征ちゃんに迷惑がかからないんだもの」



 曇り空のせいで、教室に入ってくる光量は、いつもよりも少なくなるのが早かった。教室は薄暗くなっていた。
 そんな薄暗い教室で、襲われた暴漢に泣きながら抱きつかれて、私は困惑していた。灰色の狼は肩に顔をうずめ、耳元で呟いた。狂ってやがる、復讐できねぇじゃねぇか、意味わからねぇ、などと供述しており……面倒なことに巻き込まれたな、とため息をついた。

「どうして、あなたが泣くの」
「泣いてねぇよ」
「じゃあ、よだれ?私の肩を濡らすのは」
「……鼻水だよ。突発性花粉症なんだよ」
「どっちも汚いことに変わらないから速やかに拭いてください」
「やなこった」

 理不尽にも断られ、私はわざとらしく大きなため息をついた。

「どうして」
「わっかんねぇよバァカ、なんでオレ泣いてんだよ」
「私に聞かれても」
「うっせぇ」

 悪態をつきながらも、とりあえず泣いていることは認めてくれた。肩口に染みる涙は、まだ広がりつつある。どうやらまだ泣き続けているらしい。
 理由はなんだろう。逡巡するが、思い当たらない。

「退部が嫌だったとか」
「……んなわけねえだろ」

 間が空いたことから推測するに、それも理由の一つだったのだろう。なんだかんだでバスケ馬鹿の負けず嫌いではあったのか、こいつは。

「アイツの……全部、アイツの手のひらの上、なんだよ」

 アイツ、とは、征ちゃんのことだろうか。

「(征ちゃんは、なにもしてないよ。関係ないよ)」

 紡ごうとした言葉は消える。世界に不都合なことなのだろう。

「アイツの大事なもん壊せば、復讐できると思ったのによ、ちくしょう……っ」

 こいつは、征ちゃんに勝ちたかったのか。正々堂々とは勝てないことを悟ったこいつは、私という征ちゃんに一番近しい存在を使って征ちゃんを傷つけようとしたのか。
 かわいそうだな。退部に追い込まれて反逆してやろうと思ったら、退部したことによってその手段を失うとは。全部全部、確かに、征ちゃんの、もとい、征十郎の計算の内だった。征ちゃんがこの私と灰崎との関係を知らなかったのに、皮肉にも手のひらの上で転がされたような結果になってしまった。
 それが、灰崎にとっては、完膚無きまでに叩きのめされた気分なのだろう。

「ちくしょう……」

 消え入るような声で、彼は悔しさを漏らす。私に言えることは何もない。手持ち無沙汰になった私は、彼の髪をなででるふりをしながら、ワックスで立てられた髪を地道に潰すことに専念した。



やっと灰崎が落ち着いて、そこで私は解放された。

「おいてめぇ……なんの嫌がらせだ」

 やはり開口一番、髪の毛を潰したことを諫められた。怒る元気があるくらい復活したということか。
 下校時間を告げるチャイムが鳴った。もうそんな時間になっていたのか。

「一緒に帰ってあげようか?」

 気まぐれに、優しさを投げかけてみれば、彼はそれを鼻で笑った。

「遠慮しとくわ」

 そう言って、彼は私に背を向けて教室から出て行った。私は灰崎に振り払われた武器を回収して、机に広げてあった課題を片付け、全部まとめてカバンにしまった。
 今日は私が征ちゃんを体育館に迎えに行くと約束していたんだっけ。私はカバンを持って、足早に体育館へと向かった。

「(早く、会いたい)」

 ふいに、そんな想いが込上がる。早足では遅い。私は駆け出した。廊下を走るんじゃない、と頭の中で緑間に注意される。彼なら言いそうだ。だけど、ごめんなさい。ちょっと急いでて。

「征、ちゃん」

 話を聞いて欲しくて、楽しい話がしたくて、あとは、一緒に三田さんの入れてくれたほうじ茶を飲みたい。この前みたいに征十郎とも制服交換したり、もっと他の楽しいこともしたい。征ちゃんに提案してみよう。きっと、うんと、頷いてくれるはずだ。
 校舎の外に出ると、雨の匂いがした。かろうじてまだ降り出していないものの、今にも降りだしそうな天気だ。
 征ちゃんの姿を体育館前に見つける。征ちゃんがこちらに気づき、手を振った。

「征」
「征ちゃん、部活お疲れ様」
「走ってきたのか」
「うん」
「大丈夫か?」
「体が弱くても、これくらいはできるよ」
「そっか。それならいいんだが」
「帰ろうか、征ちゃん。雨降ってきそうだし、早く」
「そうだな、一緒に、少し走ろうか」

 征ちゃんが手を差し出す。私はその手をとって、征ちゃんに手を引かれるまま、走った。
 私より少し大きくて筋肉質な手が、私の手を包む。私はそれを、強く握り返した。

「どうかしたか、征?」
「ううん、なんでもない。急ごう、征ちゃん」
「ああ」

 頷いて、優しく笑う彼の幸せを、私は小さく願った。

14.02.23 明那
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