cling

「父……さん……」

 彼が小さく呟いた声を、私は聞き取った。すぐさま征ちゃんが見据えている方向に向き直る。そこに、彼は立っていた。

「征十郎、何をしている」

 征ちゃんの父親、つまり、私の父親との、初めての対面だった。

ゆめのはなし 14

「何をしている、と言ったんだ。答えろ」

 威圧感の混じった声で呼ばれた征ちゃんは、ほんの少しびくりと体を震わせる。しかし、すぐに答えを返す。

「学校から、帰ってきたところです」

 そんなこと、見ればわかるじゃないか。なぜそんなことを聞くのか、意味がわからなかった。
 初対面の父親は、私の存在を無視して、征ちゃんだけを視界に捉えていた。目が、合わないのだ。目の前にいるのに、私の存在を無視しているようだった。
 普段の生活を思えば、おかしいのはそれだけではない。私はこの家で父親と同じ屋根の下で暮らしているのにも関わらず、今日まで一切顔を見ずに過ごしていた。一度も会わずに、今日この日まで過ごせてしまっていた。その意味を、私は深く考えていなかった。不自由なく過ごせれば、それでよかったから。

 突然、耳元で破裂音がした。それと同時に、左頬に痛みが走り、衝撃で顔が右に振れた。

「征っ!」

 征ちゃんが悲痛な声を上げて、そこでやっと平手打ちを目の前の父親にくらったことを理解した。それから、なぜ平手打ちをくらったのか、理由を考えたが、思い当たらなかった。
 父親の方へと向き直り、視線を彼と合わせようと試みた。しかし、冷たい瞳が捉えていたのは、私の足元だった。

「食べ歩きなど、はしたない」

 彼の視線をたどった先にあったのは、私が落とした棒付きキャンディーだった。
 なるほど、私は食べ歩きをたしなめられたのか。納得すると同時にそんなの学校帰りの中高生なら普通にやってるだろうという憤りが心のそこで姿を現す。しかしまあ、落ち着こう。ここは、赤司家であり、そこの娘である私は赤司家のルールに従うべきである。豪に入らば郷に従え、だ。それは、とても大事な大事なルールである。

「申し訳、ありませんでした」

 父親の瞳を一瞥し、頭を下げる。それから頭を上げて、もう一度、父親の瞳をまっすぐ見据えた。しかし、彼と相変わらず視線が絡むことはなかった。彼はすでに足元から征ちゃんの方へと視線を移していた。

「不必要なことに時間を割いている暇などない。言ったはずだ、征十郎」
「はい、父さん」

 その征ちゃんの声には、不自然なほどに揺らぎがなかった。不安も怯えもなかった。
 これは、征ちゃんではない。確信を持って振り返ると、左の瞳が橙に輝いていた。私の予想通り、いつの間にかもう一人の彼に変わっていた。

「申し訳ありません、以後、気を付けます」
「以後気を付ける、では遅い。失敗をしてから気付くなど、凡人のやることだ」
「はい」
「同じ失敗を繰り返すのは、愚者のやることだ。分かっているな」
「はい」
「わかっているならいい」

 そういい残し、父親は赤司の返事も待たずに私たちに背を向けた。

「征十郎をたぶらかすな」

 それは、おそらく、私への言葉だった。背を向けたまま、父親は言葉を続けた。

「女狐」

 多分これも、私に向けた言葉なのだろう。征ちゃんは男だし、消去法的に私しかいないし。
 視線も合わせてもらえず、名前を一切呼ばずに挙げ句の果てに女狐呼ばわりだ。赤司征美はとんでもなく不幸な少女なのかもしれない。
 他人事のように目の前の現象を冷静に分析しながら、家の中へと消えていく父親の背中を見送った。先ほど心の底で現れた憤りも、不思議なことに消え去っていた。実際、私の中では他人事だったからだ。
 赤司征美という人物は、私の仮の姿でしかなかった。

「征美」

 その仮の名を、赤司が呼ぶ。振り返ると同時に、彼は私の腕をつかんで、早足で歩きだした。

「ちょっと、どうしたの?ねえ」

 彼は返事もせず、ただ、足を進める。玄関にたどり着けば、らしくもなく乱雑に靴を脱ぎ棄て、私もそれにならって靴を脱ぎ散らかしたままにする。廊下を進む間も、彼は私に顔を向けないまま、ただただ進み続けた。先を行く彼の表情は見えなかった。  たどり着いたのは、彼の部屋だった。腕をつかまれたままの私も、彼に続いて部屋の中へと入る。やっと立ち止まって、私は腕を解放される。しかし、次の瞬間には私は彼の腕の中にいた。身動きが取れない程度に、強く抱きしめられていた。そして彼は私の肩に顔をうずめた。
 私は困惑した。彼のこの行動の意味が分からなかった。どうして、どうして彼がこんな行動に出るんだろうか。私は唯一動かすことのできる両腕を、だらりと体の横にぶら下げることしか出来なかった。

「ごめん、"オレ"のせいで……君を巻き込んで」

 その一人称は、征ちゃんであるときの証だった。いつの間に、人格が入れ替わったのか。

「ごめん、僕には……君まで守ることが、できなくて……」

 かと思えばもう一人の一人称を使うので、私は混乱する。人格はこうも頻繁に入れ替われるものなのだろうか。瞳の色で判別しようにも、この状況では顔を覗き込めない。仕方ないので聞くことにしよう。

「あなたは、今どっちの人格の征ちゃん?」
「僕、だよ」

 肩に顔をうずめたまま、彼は言った。

「あなたのこと、なんて呼んだらいい?もちろん、征ちゃん、のままでもいいんだけど、区別できる方がいいかな、と思って」
「征十郎、がいい」

 即答だった。

「じゃあ、征十郎」
「なんだい、征美」

 彼は、私の肩から顔を上げようとしない。私を抱きしめて、肩に顔をうずめたままだった。

「私は……征十郎が何を言っているのか、正直よくわからなくって」
「ああ」
「でも、征十郎が、私に対して罪悪感を持ってるっていうのは、わかるっていうか……そう、だよね?」
「……ああ」

 少し気まずそうにうなずいて、彼は顔を少し外に向けた。征十郎の赤い髪が、腫れた頬をくすぐる。チクリと痛みが走る。

「でも私は、全然傷ついてないんだ。さっき父親に、叩かれたときも、ひどいことを言われたときも、なんとも思わなかったの。私にとっては、全部他人事なんだ。私は、本当の意味では"赤司征美"じゃないから。別の世界の人だから、どれだけ赤司征美が不幸でも、傷ついても、痛くも痒くもないんだよ。だから」

 でも、だからこそ、大事な想いすら、私には受け止められない。私は、宙ぶらりんになっていた両腕を、征十郎の背中に回した。

「だから、私のことを大切に思ってくれても、私は、それすらも、ちゃんと受け止められないんだ。ごめんね」
「僕の方こそ……ごめん」

 征十郎の腕の力が少し強くなる。その感触は、しっかりと伝わっているというのに。

「気にしなくていいよ。だから、好きなだけ、私に寄りかかって構わないんだよ」
「ああ、ありがとう」

 そう言って寄りかかってくれる征十郎は、優しい。私にできることが、それくらいしかないということを、彼はちゃんと分かってくれていた。



征十郎は父親と対面したときに出てくることが多いらしい、ということを教えてもらった。

「僕には、恐怖が欠落しているんだ。だから、父親と対面していても、苦痛も何も感じない。だけど、"オレ"は違う」

 だからこそ僕が生まれたんだけど、と説明を加える。
 私たちは征ちゃんの部屋で学校の課題をしながらおしゃべりをしていた。机にノートと教科書を広げながら、征十郎のことについて詳しく話を聞いていた。

「"オレ"は、優しい子だったからね。最善の策のために、誰かを切り捨てるという罪悪感に耐えられなかった」
「そっか……」

 征十郎は課題を解く手を一切止めることなく、スラスラと説明する。

「僕には、感情が欠けている。最善を選ぶために、僕は迷ってはいけないからね」

 自分の役割と、しっかりと受け止めていた。

「僕にとって一番大切なものは、"オレ"だからね。大事な大事な、片割れだから」

 寂しそうに笑って、彼はつぶやいた。目を伏せて手元に視線を落とす。
 その時、三田さんがやってきて、ご飯の時間だと告げられる。征十郎は父親との、私は一人での食事の時間がやってきた。

「じゃあ、またあとで」

 そう言って、征十郎は父親のもとへと向かった。私は三田さんが運んできてくれたご飯を堪能した。

13.12.25 明那
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