cling

 その日、灰崎の襲来はなかった。その次の日もそのまた次の日も灰崎と会うことはなかった。私は朝と夜に征ちゃんに会い、昼間は教室の机に向かい一人を堪能する作業を黙々とこなしていた。
 虹村さんと会ったのもあの日が最後だった。デコピンを食らった額を髪の上から撫でる。
 学年が違うため、一方的に見かける機会すらなかった。一年の差をこんなにも大きな壁だと感じたのはいつぶりだろうか、なんてことを一人の時間に考えていた。意識していなければ頭に浮かぶのは虹村さんのことだった。
 もっと彼について知りたいのだが、今晩あたりに征ちゃんに聞いてみるのも手かもしれない。会いにいくという選択肢もあったが、私の腰は重かった。この世界に影響を与えられないだけで、別に動けないわけではない。それでも私は、教室の机で一人を堪能することに甘んじていた。
 そうして今日も、征ちゃんの部活が終わるまで放課後の時間を潰そうと思っていた。

「あの……赤司、さん」
 桃色の髪が視界の端で揺れた。私は顔をあげる。この世界では初めて会う、見知った彼女の名前を紡ぐ。
「桃井さん」
「今、時間いいかな」
 いつだって、この世界は私を巻き込まずには進まない。それは、私が動いても動かなくても一緒だ。ならば、私はより労力の少ない方を選ぶ。その方が賢いよね、というだけのお話。

ゆめのはなし 11

「見せたいものがあるの」
 そう言って桃井は私を屋上に連れて行った。階段を上がり、少し重い鉄製の扉を開き、空が広がる空間へとたどり着く。先陣を切った桃井は、体育館の見える方へとその足を進め、フェンスのところで立ち止まった。振り返り、入口で立ち止まっている私を手招き、下を指差した。どうやら、見せたいものというのはフェンスの向こうにあるらしい。私はフェンスに近づき、そして彼女が指差す方を見る。

 そこで、すべてを悟った。
 灰崎の接触がなくなったこと、突然桃井が私を呼び出したこと、それがすべて、一人の人物を中心につながった。
 彼女の指差す方向には、嫌がる灰崎の首に腕を回し、灰崎を練習に連行する青峰の姿があった。
「大ちゃ……青峰くんに、伝えるように頼まれたの。もう大丈夫だよ、って赤司さんに伝えてくれって」
 あいつは、青峰は、虹村さんに頼まれたときは、不満そうな声を上げていた。なのにどうして、あんなことを。
 青峰が灰崎を体育館へと放り込んだ。そこで振り返り、私たちを見つけたのだろう。彼は背を向けながら、片手を上げて私たちに小さく手を振った。そして灰崎同様、体育館の中へと姿を消した。
「アイツったら、カッコつけなんだから」
 桃井は困ったように笑って、体育館へと消えていった青峰を見送っていた。

「ありがとう」
「ううん、私は何もしてないよ」
「でも、私をここまで連れてきてくれたじゃない。口で説明するだけで済ますことだって出来たのに」
「口で説明するよりも、こっちの方が早いかなと思って。それに、実際に目で確認したほうが安心するでしょ?」
「確かに、説明なしに状況が理解できたよ」
 なんという気遣いだろうか。青峰には絶対に真似できない。だからこそ、青峰は桃井に託したのだろうか。
「赤司さんって、頭いいよね」
「桃井さんの方こそ」
 頭が回らなければ、こんな最善で最低限の行動を選択なんて出来ない。
「ううん、私のは」
 風が吹いて、桃色の髪とスカートがなびく。なびいた髪を片手でかき上げ、彼女は笑ってこう言った。
「女のカンってやつだよ、きっと」
 この才能を征ちゃんが見出すのは、もう少し先の話だろう、なんてことが頭をよぎった。
「そういえば桃井さん、部活は大丈夫?」
「うん、大丈夫。虹村キャプテンからの許可はもらってきたから」
「……それなら、大丈夫だね」
 そこで出てきた虹村さんの名前に、ほんの少しだけど、心臓を引っかかれる。どこまで虹村さんの世話になれば気が済むのだろうか。手を差し伸べられてばかりで、とても不甲斐ない。
「赤司さん」
 後ろ向きな考えを遮るように、桃井の呼ぶ声が聞こえた。顔を上げて桃井を見ると、少し話しづらそうに、目線を泳がせていた。
「あ、あの、よかったらまた……こ、今度は用事がないかもしれないけど、話しに来ても、いいかな?」
 友人への誘いだった。さっきまで普通に会話をしていたというのに、いきなりの余所余所しい口ぶりに、私は思わずふきだしてしまった。
「赤司……さん?」
 私の様子に困惑する桃井は、ごくごく普通の女の子だった。当たり前の事なのに、それが、なぜか新鮮だった。こんなふうに、友達になろう、なんて声をかけられるのは、いつぶりだろうか。
「桃井さんって、とても可愛いよね」
「え、ええ?!」
 思わず口走ってしまった本音に、桃井は更に慌てて顔を赤く染める。
「私の方こそ、よろしく」
 やっとのことでちゃんとした返答をすれば、桃井は顔を赤らめたまま、だけど嬉しそうに笑った。
「うん、よろしくね!」
 こうして、赤司征美と世界の関わりがまた一つ、増えることになった。それがもたらす結末に気づくのは、もう少し後の話。


13.12.18 明那
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