cling

「お姉さん楽しい?」
 真っ白な空間で、少年と対峙していた。これは、夢だなと、直感的に思う。少年は投げかけた問いの答えも待たずに、人を蔑むような顔を浮かべて生意気に言葉を続ける。
「一体、どれが夢なんだろうね?」
 胡蝶の夢、という話を思い出す。ひらひらと蝶になって飛び回っているところで目が覚めたが、蝶になる夢を見たのか、蝶の自分が今人間になっている夢を見ているのか、と考えるお話。とても綺麗な話だが、そんな発想すら人間らしい思考でしかない。蝶みたいなちっぽけな頭で夢をみれるほどの情報を蓄えられる可能性は極めて低い。蝶が夢をみるなんて、そんな「夢」は見れない。なんて判断をくだすなんて、つまらない頭になってしまったものだ。

「だんまりで面白くなーい。蝶がなんだっていうのさ。目の前の現象にすら真面目に向き合えないのかよ」
 私の思考を読んでいるではないか、と揚げ足を取る余裕はなかった。心臓に、少年の爪が引っ掛かる。
「ふふ、ふふふ、ははははははは」
 少年は、私の顔を見て楽しそうに笑う。両手を広げて、くるくると楽しげに回りだした。
「心配ないよ、お姉さん!」
 声高らかに、少年は叫んだ。そして立ち止まり、振り返る。
「大丈夫、向き合ったとしても、お前は何もできないよ、赤司征美」
 そしてまた、真っ白な空間に浮かぶ、異質な黒が揺れる。膨れ上がって、不気味な口を大きく開け、私を飲み込んだ。黒が視界を支配して、暗くて冷たい空間に放り込まれる。
 そこで私は、片方の手の異常に気付いた。全身が冷たいというのに、ただそこだけが熱を帯びていた。まるで誰かが握っていてくれているかのように、温かかった。

ゆめのはなし 10

「征」
 征ちゃんの声で、目が覚めた。手を握ったまま寝ていたことを、思い出した。目を開けると、繋いだ手と征ちゃんが視界に入る。
「おはよう、征」
「……おはよう……征ちゃん」
 繋いでいた手を離し、征ちゃんは先に体を起こした。起き上がろうとしない私を見て、くすっと笑う。
「本当に、朝に弱いんだな、征は」
「今……何時?」
「ん?五時だが」
 いつもよりさらに一時間早い時間だった。こんな時間に起きたのはいったいいつ振りだろうか。まだ寝ていたい、と言いたいところだが、征ちゃんは起きる気満々だったのであきらめて起きることにした。
 それから征ちゃんの日課に付き合った。ジャージに着替えて外周をしたり(私はあきらめて門の前で待っていたけど)、中庭の池の鯉に餌をやったりした。

「そろそろ朝食の時間かな」
「そうだな、オレは先に着替えてくる」
「私はもう少しここにいるよ」
 池のほとりに座り込んで、征ちゃんにそう告げた。すると征ちゃんはくすっと笑った。
「また、落ちてしまわないように気を付けるんだよ」
「そんなドジ踏まない……多分」
 征ちゃんは最後まで笑いながら、中庭を後にした。私がこの池に高頻度で落ちることになっているが、それは設定上仕方なくであって、決して私がどんくさいというわけではない。少し不満に思いながら、私は池で泳ぐ鯉を眺めていた。ゆらゆらと不規則に漂う赤色を目で追うだけの単純作業。ざわざわと、中庭の木々が揺れる。ひんやりとした風が、肌を撫でる。朝はまだ少し肌寒い。
「征美さん、おはようございます」
 背後から、三田さんの声がして振り返る。彼女は大きなお盆を持って廊下に立っていた。
「あ、三田さん、おはようごさいます」
「お食事の準備ができましたよ」
「ありがとうございます」
 お礼を言って、私は今日も豪華な一人ぼっちの朝食を味わう。筍ご飯がおいしい朝だった。



 征ちゃんと門で別れた後、あとはいつも通り一人の世界で生きていくだけだと思っていた。しかし、教室の扉を開けるとそいつは私の席にいた。
「よお、赤司妹」
 素敵な笑顔で、私の席にそいつは座っていた。昨日虹村さんに加えられた制裁の跡が、頬や腕まくりをした服の下からのぞいている。そいつは笑顔だった。

「おはよう、灰崎」

 灰崎は私の席に座ってふんぞり返っていたが、挨拶を終えると立ち上がり、つかつかと私のところまで歩いてきた。
「何用でしょうか」
「表にでろ」
「嫌だと言ったら」
「無理やり連れ出すまでだ」
 そう言って灰崎は私の腕をつかみ、無理やり廊下へと連れ出した。
「昨日はよくも……」
 廊下に出ながら紡がれた灰崎の言葉は途切れた。何事かと、静止した彼の視線の先を辿る。

「よお灰崎、先輩への挨拶はどうした?ああ?」
「きゃ、キャプテン……ち、ちーっす」
 廊下で出待ちをしていた虹村さんが、とてもとても素敵な笑顔で灰崎を見ていた。灰崎は即座に私の腕を離し、開放した。
「お前は、昨日の今日で何してやがる?」
「は、はは、な、なんのことかさっぱり」
「虹村さん、おはようございます」
「おっす」
「お前は何呑気に挨拶してんだよ!」
「挨拶の何が悪いの?」
「そうだぞ灰崎、てめぇこそ見習えよ」
「っ……!」
 私はちゃっかり虹村さんの背後に回り込み、灰崎と距離をとっていた。そのため、悔しそうに言葉を失う彼の八つ当たりから逃げることが出来た。虹村さんを挟んで灰崎と対峙しているのだが、さすがに虹村さんには手を出さないようだ。昨日の一方的な暴力を見れば、灰崎が虹村さんに敵うわけはないので、灰崎も馬鹿ではないようだ。
「お、覚えていやがれ赤司妹!!」
 なんとも格好悪い悪役みたいな捨て台詞を残し、彼は私たちに背を向けた。私は最後に、彼にアドバイスをしてあげた。
「灰崎!先輩への挨拶、忘れてるよ」
「キャプテン失礼します!!!」
 向き直って雑にお辞儀をして、今度はダッシュで帰って行った。そんな彼の背中を見ながら、私は灰崎に負け犬の遠吠え系男子という称号を心の中で与えた。
「虹村さん、ありがとうございました」
「だから気をつけろっていったじゃねぇか、アイツしつこいからな」
「……でも」
「でもじゃねぇよ」
 虹村さんの手が私の額の前に伸びる。
「っ!」
 ピンっとはじかれた中指が私の額を打った。手加減はもちろんされているのだが、それでもあとを引く痛みに私は額を抑えた。
「虹村さん……痛い、です」
「わりぃ、手加減ミスったわ」
 口で「悪い」という割には虹村さんは特に悪びれた様子はない。無邪気に笑う、その顔をみるだけで心臓が跳ねる。そのときだった。

「あ、キャプテン、ちっす」
 虹村さんに挨拶をしたのは、先輩にちゃんと挨拶をするピュアな青峰だった。これがこの世界での青峰との出会いだった。
「珍しいっすね、キャプテンが二年教室にくるなんて」
「おお、灰崎がこいつにちょっかいかけてて、しばきに来た」
 虹村さんは私を指差しながら青峰に説明する。青峰は灰崎の名前を聞くと、納得したように言葉を返す。
「またアイツっすか」
「あ、丁度いい。青峰お前、灰崎が赤司妹に手ぇ出してたらおっぱらってやってくれ」
「えー」
 青峰は面倒そうに不満の声をあげる。そこで虹村さんは逆らえない切り札を容赦なく笑顔で出した。
「先輩命令」
「……うぃっす」
「虹村さん、私」
「大丈夫じゃなかっただろ」
 抗議をしようとするも、虹村さんの言葉に私は何も言えなくなる。確かに私は灰崎に対抗できなかった。言われるがまま、されるがままに廊下に連れ出された。
「気ぃついたら、程度でいいっすかキャプテン」
「ああ。頼んだ」
 青峰に声をかけた虹村さんは、それから私に向き直る。私は耐え切れずに謝った。
「すみません……ご迷惑を、おかけして」
「悪いのはお前じゃないだろ」
 だけど、虹村さんには関係がないことではないですか、と紡ごうとした口を閉ざす。助けてもらったのにそんな言い方はさすがに失礼だ。それに、昨日のことを隠しておいて欲しいと頼んだのは私だ。虹村さんと私の間に、関係を結んでしまったのは私の方だった。
 結局返す言葉が見当たらず、虹村さんは、またな、と言って自分の教室へと帰っていった。
「お前、赤司の妹だっけ?」
 青峰が気を遣ってか、私に喋りかけてくれた。
「うん」
「喋んのは、初めてだよな?」
「そうかもね」
「お前もまあ変な奴に目ぇつけられちまって、災難だな」
「本当にね」
「まあ、やつもそのうち飽きるんじゃね?」
「多分。だから、あんまり気にしなくてもいいよ」
「そうか」
 別段話が弾むこともなく、会話が途切れたところで、青峰が別れを切り出した。
「じゃあオレ、教室に帰るわ」
「付き合わせて、ごめんね」
「まあ気にすんなって」
 青峰はそう言って片手を振りながら、自身の教室に帰っていった。
 そうしてやっと長い朝が終わり、私は一人に戻ることができた。そこからはいつも通りだった。教室で一人ずっと机に向かうだけの作業。それに私はなぜか安堵感を覚えた。


13.12.09 明那
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