cling

ゆめのはなし 02

 赤司はその整った顔をゆったりと動かし、首をかしげた。
「君は、一体何者なんだ……?」
「わ、私は」
「あら、征美さん。また池に落ちてしまわれたのですか」
「え?」
 赤司と私が同時に声のした方向へ振り返る。征美、という聞きなれない名前を持つ人物を探すため、私は視野を広げて状況を把握する。
 中庭のような場所に、古い日本家屋のような建物が目の前にあった。中庭には私と赤司の二人がいて、声をかけてくれた着物の女性は廊下に立っていた。それ以外に人はいない。
 そこで初めて、私は自分の状況を把握した。私の体は全身濡れていて、座り込んでいる状態だったので、腰から下に関してはまだ水に浸かったままであった。腿を何かが撫でた感触を捉え、驚いて覗き込むと真っ赤な鯉が泳いでいた。どうやら私は池に浸かっているらしい。
「三田さん」
 どうやら三田、という名前らしいその女性は、池に浸かっている私を珍しい目で見ることなく言葉を続ける。
「征美さん、タオルはここに置いておきますね。今着替お持ちいたします」
 抱えていたタオルを廊下に置いて、パタパタとスリッパを鳴らしながら三田さんは行ってしまった。彼女は私に向かってその聞き覚えのない名前を投げかけ、私と赤司を二人その場に残した。
「君の名前は、征美、というのか?」
「違う、私の名前は……」
 言葉が詰まった。鼻の奥がムズ痒くなり、私はくしゃみをこらえきれずに繰り出した。
「とりあえず、池から上がろう。話はそれからだ。立てるか?」
 頷いて、私は立ち上がる。池の深さは大してなく、赤司に腕を引いてもらいながら簡単に上がることができた。私が池から上がるのを確認して、赤司は私から手を離した。
 全身にまとわりつく衣服と髪が煩わしい。ふと、視界の端に紛れ込んだ自分の髪色が目に留まった。それは、綺麗な赤色だった。目の前の赤司と同じ、赤色の髪。驚いて、自分の姿を確認する。先ほど着ていたはずのジャージの代わりに、見覚えのある制服を着ていた。水色のブラウスにリボン、裾に白いラインが入った黒のプリーツスカート。それは、帝光の制服だった。
 廊下においてもらっていたタオルを赤司から受け取り、ひとまず私は髪を拭いた。水が滴らない程度に水を拭き取った頃、三田さんが帰ってきた。
「征美さん、お着替え、こちらに置いておきますね」
「あ、ありがとうございます」
「もう、本当に、気をつけてくださいね」
 三田さんはそう言い残し、スリッパの音を響かせながら遠ざかっていく。三田さんからもらった着替えは、現在私が着用している制服と変わりないものだった。渡されたところで、私はどこで着替えるべきなのかわからないのだが。
「こっちへ」
 着替えを受け取ったままつっ立っている私を見て、赤司は私の考えていることを読み取ったらしい。
「オレの部屋を使うといい」
 そう言って赤司は私に背を向け、廊下をゆっくりと進み出した。私は彼の背中を追いかける。
「オレも、君も、状況が把握しきれていないが、話は着替えてからにしようか」
「う、うん。ありがとう」
「ここの部屋を使ってくれ」
 赤司は障子を開けて、私を部屋に招き入れた。彼の部屋らしい和室には勉強机や本棚が配置されており、想像していたよりも中学生らしい部屋だった。
「着替えが済んだら、部屋の外に出ておいてくれ。少し席を外すが、すぐ戻ってくる」
 そう言って彼は部屋を出て障子を閉めた。足音が遠ざかって行き、気配が完全に消えてしまった。私は急いで着替えを済ませることにした。
 着替える際に、自分の体が全くの別人になっていることを確認した。姿見を覗き込むと、そこにいたのは赤司によく似た美少女だった。赤司と同じきれいな赤い髪は腰までの長さがあり、赤司によく似た端正な顔。中学生らしい控えめな胸だが、全体的にバランスのいいスタイルだった。更に、足は折れそうなくらい細かった。
「な、なに、これ……」
 驚いた顔をすれば端正な顔立ちが鏡の中で歪む。完全に自分の行動と一致するため、信じがたいことだけど、どうやらこの美少女の体は私が得ているらしい。
 廊下から足音が聞こえてきた。赤司が戻ってきたようだ。着替えを終えた私は障子を開けて赤司を部屋に迎え入れた。
「君のことを、家の者に探りを入れてきた。結果、君は赤司征美という、オレの双子の妹らしい。」
 赤司は先ほどの三田さん(お手伝いさんらしい)を始め、家の者に私についての話を聞いてきたようだ。征美、という聞きなれない名前はどうやらこの体の私に与えられていた名前だったようだ。
 しかし、私が知っている漫画の赤司征十郎に妹は存在しなかったはずだ。
「どうしてか、オレ以外の全員が、君の存在を、ずっと前から認識しているんだ」
「どういうこと?」
「オレは、今日初めて君に会った。君も、そうだろう」
「うん」
 私は何かに飲み込まれて、気づいたら池の中に沈んでいた。そして、赤司に引き上げられた。
 赤司はそのとき、鯉に餌をやるために中庭に来ていたらしい。そこで、池から伸びる私の腕を見つけて、慌てて引き上げたらしい。
「なのに、オレ以外の人は、君がその前からずっといたかのようなことを言うんだ」
 三田さんの言葉を思い出す。赤司も同じ言葉に引っかかっていたらしい。
「三田さんが言った、『また池に落ちてしまわれたのですか』という言葉が気にかかって、聞いてみたんだ。そしたら、君は幼い頃から何度もあの池に落ちている、と三田さんから聞いた」
 池に頻繁に落ちるなんて、ドジっ子にも程がある。ドジっ子で済まされないレベルではないか、というツッコミは飲み込んで赤司の話に相槌だけうつ。
「君についての武勇伝はたくさんあるらしいよ。長くなりそうだったから、また今度聞くことにしたけど」
 なぜか楽しそうに赤司は状況を話す。私は不思議そうな顔をしてしまっていたのだろうか、赤司はそれに気づいて、少し申し訳なさそうに笑った。
「ごめん、こんな状況なのに、不謹慎だったかな」
「そ、そんなことないよ」
「まあ、オレがさっきの短時間で聞けたのはその位だよ。それで、次は君の話を聞いてもいいかな」
「うん」
 部屋でくつろいでいたら、少年の影に飲み込まれて、気づいたら池で溺れていて、体が別人になっていた、と説明した。また、赤司は漫画の登場人物であることを伝えると、赤司は興味深そうにそれを聞いていた。
「そういえば、君の本当の名前を聞いていなかったね。教えてくれるかい?」
「私の名前は――――」
「……君の、名前は?」
 私は自分の名前を紡ごうとして、それ以上言葉が出てこなかった。そんな私を、赤司が不思議そうに覗き込み、同じ質問を繰り返す。私は名前を思い出す。自分の名前を。生まれた時に与えられた、自分を指し示す固有名詞を。
「わから、ない……」
「え?」
「思い……出せない」
 私は一生忘れるはずなどない名前を紡ぐことができなかった。信じられないことに、私は自分の名前を思い出せなかった。ぽっかりと、そこだけに穴があいたように、記憶が欠落していた。
 欠落を認識した瞬間、視界が揺らぎ、赤司の姿が歪む。赤司の声が遠ざかる。
 世界が暗転し、私は意識を手放した。

13.12.06 明那
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